職場で新しい方針が示されたとき、心のどこかで納得できない。上司の意見にも一理あると分かっているけれど、自分の経験から見れば違和感もある。とはいえ、強く反論すれば扱いづらい人に見られるかもしれない。反対に、何も言わずに合わせれば、自分の考えを失ってしまう気もする。
この「どこまで自分を通し、どこから周囲に合わせるべきか」という迷いは、現代のビジネスパーソンにとって、とても切実なテーマです。特に、経験を重ねてきた人ほど、自分なりの成功パターンや仕事の美学を持っています。それは大切な財産である一方で、状況が変わったときには、自分を縛るものにもなります。
易経の「随」は、この迷いに対して、単に「人に従いなさい」と言っているわけではありません。「随う」とは、人の顔色を読むことでも、自分を消して流されることでもありません。むしろ、今この状況が本当に求めている流れを見極め、その流れに自分の力をどう預けるかを考える智慧です。
「随」は正式には「沢雷随」と呼ばれ、沢の柔らかな受容性と、雷の内なる行動力が重なった卦です。動爻がなく、之卦もない今回は、次にどう変わるかではなく、「今、あなたは何に随っているのか」を静かに問う形として読みます。恐れに随っているのか。慣れに随っているのか。それとも、状況の本質に随っているのか。この記事では、「随」を未来予言ではなく、仕事・キャリア・人間関係・恋愛・資産形成に活かせる思考の補助線として読み解いていきます。
「随(ずい)“沢雷随”」が示す現代の知恵
「随」は、上に沢、下に雷を持つ卦です。沢はよろこび、受容、柔らかく人を引きつける力を表します。雷は動き出す力、内側から湧き上がるエネルギーを表します。つまり「随」は、強い動きの力が内側にありながら、外側では柔らかく周囲と響き合う形です。
ここで大切なのは、雷の力が消えているわけではないということです。自分の意志も、実力も、判断力もある。しかし、それを表に出して強引に押し通すのではなく、状況の流れに合わせて、最も効果的な形で使う。これが「随」の本質です。
現代の仕事でいえば、これは「戦略的適応」に近い考え方です。ただし、ここでいう戦略とは、人を操作する計算ではありません。自分の正しさを証明することにこだわるのではなく、いま場が必要としているものを感じ取り、自分の力の向きを変えることです。
「随」が問うのは、周囲に合わせるか、自分を通すかという単純な二択ではありません。どちらを選ぶにしても、その判断が何に基づいているのかが問われます。事実に基づいているのか。長期的な信頼につながるのか。自分の本質的な力を活かせるのか。それとも、恐れや惰性、過去の成功体験に引っ張られているのか。
この卦には「元亨利貞」という考え方があります。難しく言えば、正しい道に随うなら大きく通じる、という意味です。現代語にすれば、「随うなら、随う対象を誤ってはいけない」ということです。周囲の声や時代の流れに耳を澄ませつつも、そのすべてに反応するのではなく、随うに値するものを選び取る。そこに「随」の成熟があります。
動爻がない「随」は、何かを急いで変えるよりも、まず自分の構えそのものを整えることを促します。之卦がないことは、答えが欠けているという意味ではありません。むしろ、「今はこの卦の示す姿勢を深く見つめるとき」と読めます。
仕事では、周囲の方針や市場のニーズにどう応じるか。人間関係では、相手や場のリズムをどう受け止めるか。恋愛では、自分の期待だけで相手を動かそうとしていないか。資産形成では、思い込みではなく事実に随えているか。「随」は、さまざまな場面で、同じ問いを静かに投げかけます。今、自分は何に随っているのか。その問いこそが、この卦の現代的な知恵です。
キーワード解説
正随 ― 随う対象を選び取る
正随とは、随う対象を正しく選ぶことです。「随」で最初に問われるのは、どう合わせるかではなく、何に随うかです。上司の機嫌に随うのか、職場の空気に随うのか、過去の自分のやり方に随うのか。それとも、いま本当に必要とされている仕事の本質に随うのか。この違いを見誤ると、同じ「合わせる」でも、結果は大きく変わります。
ここでいう正しさは、道徳的に立派であるという意味だけではありません。事実に合っているか。場をよくするか。長期的に信頼を損なわないか。自分の本質的な力を活かせるか。こうした基準を持って随うことです。周囲に合わせることに疲れている人ほど、実は「何に随っているのか」が曖昧になっています。「随」は、まずその対象を見直す卦です。
柔応 ― 流れに形を合わせる
柔応とは、柔らかく応じることです。自分の軸を持ちながら、表現や進め方は状況に合わせて変える。これは、自分を曲げることではありません。自分の力を届きやすい形に整えることです。
仕事でいえば、以前のやり方が通用しない場面で、「私はこの方法で成果を出してきた」と固執するのではなく、いまのチームや市場が受け取りやすい形に翻訳することです。恋愛でいえば、相手を自分の理想へ引き寄せるのではなく、相手のペースを知るために一度乗ってみることです。
「随」の柔らかさは、弱さではなく調整力です。内側に意志や判断軸があるからこそ、外側の形を変えられます。変えなくてよい核と、変えた方がよい形を分けることが、柔応の実践です。
手放 ― 主導権を預けて整える
手放とは、自分がすべてを動かそうとする姿勢を一度ゆるめることです。責任を放棄することではありません。必要以上に主導権を握りしめることで、かえって流れを止めていないかを見直すことです。
プロジェクトでも、人間関係でも、資産形成でも、「自分の思い通りにしたい」という力が強くなりすぎると、事実が見えにくくなります。相手の反応、市場の動き、チームの温度感、体調の変化。そうしたものは、こちらが支配しようとするほど遠ざかります。
「随」における手放しは、あきらめではありません。状況をよく見るために、自分の握力をゆるめることです。握りしめていた力を少しほどいたとき、流れの奥にある本当の要請が見え始めます。
象意と本質的なメッセージ
「随」は、沢の下に雷がある卦です。雷は、本来なら勢いよく外へ動き出す力です。新しいことを始める力、意見を出す力、周囲を動かす力、自分の道を切り開く力。けれども「随」では、その雷が沢の下にあります。
この形は、とても印象的です。静かな沢の水面が、空や光や周囲の景色を映し出している。その下に、まだ表には出ていない雷の力が潜んでいる。水面は穏やかでも、内側には動く力がある。外側の柔らかさと内側のエネルギーが同時に存在しているのが「沢雷随」です。
この卦を現代の仕事に置き換えるなら、実力がある人ほど、自分を押し出すだけでは足りないということです。経験も知識もある。だからこそ、すぐに意見を言いたくなる。自分の判断の方が正しいと思う。けれども、場には場の流れがあります。組織には組織の事情があり、相手には相手のリズムがあります。市場には市場の変化があります。そこで自分の力をどう使うかが問われます。
「随う」とは、人に従うことではなく、時に随うことです。いまこの状況の本質はどこにあるのか。いま場が求めているものは何か。自分の意見を通すことが本当に全体をよくするのか、それとも一度受け止めることで、より大きな流れをつくれるのか。その見極めが「随」です。
前述した「元亨利貞」は、この見極めに条件を与えます。何にでも合わせるのではなく、正しいもの、信頼に足るもの、事実に根ざしたものに随う。だからこそ「随」は、柔らかさでありながら、同時に厳しい判断の卦でもあります。
たとえば、職場の空気に合わせて、本当は必要な指摘を飲み込むことは「随」の成熟ではありません。相手に嫌われたくないから自分を消すことも、状況の本質に随っているとは言えません。反対に、自分の正しさにこだわりすぎて、場の変化を受け取らないことも「随」から外れます。
「随」が求めるのは、受け入れる力と選び取る力の両立です。表面は柔らかく、内側は静かに強い。この二つが揃ったとき、随うことは単なる適応ではなく、成熟した判断になります。
今回は動爻がなく、之卦もありません。これは、変化の物語がないということではありません。むしろ「随」という構えそのものを深く見つめるべきときだと読めます。何か別の状態へ急いで移るのではなく、今この卦のまま、随うことの意味を徹底して問い直す。そこに不変の卦の重みがあります。
動爻がある場合、易は「ここが動き出す」「ここが変化点になる」と示します。しかし動爻がないときは、特定の一点を直すというより、全体の姿勢そのものが問われます。随い方が浅くないか。随う対象を間違えていないか。流れに乗っているつもりで、実は恐れや惰性に従っていないか。そこを静かに見る必要があります。
この不変の「随」をさらに深く受け止めたい場合は、「動爻がない卦を得たときの受け止め方」を合わせて読むと、変化が示されない卦の意味がより立体的に見えてきます。
「随」の本質は、自分の力を捨てることではありません。力の出し方を変えることです。主張を弱めるのではなく、届く形に整える。自分を消すのではなく、状況の本質に自分を合わせる。沢の静けさと雷の力が重なるところに、随うことの本当の強さがあります。
人生への応用
意思決定とリーダーシップ
リーダーシップというと、前に立って方向を示すこと、迷わず決めること、周囲を引っ張ることを思い浮かべるかもしれません。もちろん、それも大切な力です。しかし「随」が示すリーダーシップは、少し違います。力のある人が、あえて場の声を受け止めることで、全体の動きが整っていく。そこに「随」ならではのリーダー像があります。
職場で新しい方針が出たとき、経験のある人ほど違和感に気づきます。「この進め方では現場が混乱する」「この目標設定では長続きしない」「もっとよい方法がある」。その感覚は無視すべきではありません。ただし、その違和感をすぐに反論として出すかどうかは別の問題です。
「随」の智慧をリーダーシップに活かすなら、まず問うべきは、「この場はいま、何を必要としているのか」です。自分の意見を通すことが必要なのか。現場の声を集めることが必要なのか。上層部の意図を理解することが必要なのか。あるいは、一度流れに乗ってみて、実際の摩擦点を見極めることが必要なのか。
ここで大切なのは、「聴くこと」を受け身の態度にしないことです。随の卦では、動く力は内側にあります。だから、聴くことは沈黙ではありません。現場の声、メンバーの不安、上司の意図、顧客の反応を集め、それらの中から本質的な流れを見つける能動的な行為です。
たとえば、ある管理職が新しい業務システムの導入に違和感を持っていたとします。以前のやり方に慣れたメンバーからも不満が出ている。ここで「やはりこの方針は間違っている」と決めつけてしまえば、ただの抵抗になります。逆に「上が決めたことだから仕方ない」と飲み込めば、現場の信頼を失います。
「随」なら、まず流れの奥を見ます。なぜこの方針が出たのか。会社は何を変えようとしているのか。現場の不満は、方針そのものへの抵抗なのか、それとも説明不足や準備不足から来るものなのか。その見極めをしたうえで、必要な意見を出す。これが、随うことと主導することを両立させる姿勢です。
意思決定においても、「随」は焦りを戒めます。すぐに賛成する必要も、すぐに反対する必要もありません。状況の流れを見て、随うに値するものを選び取る。そのためには、感情の反射で判断しないことが大切です。
リーダーが本当に強いのは、自分の考えを押し通すときだけではありません。自分よりも現場がよく見えていると判断したとき、メンバーの意見を採用できること。自分の成功体験より、今の状況に合った方法を選べること。自分のプライドより、場の成熟を優先できること。これらはすべて、「随」のリーダーシップです。
随うべき局面と、決断を迫られる局面の見分け方を考えたい場合は、対比として「夬」の決断の智慧を読むと、自分の立ち位置を整理しやすくなります。
このセクションで残しておきたい問いは一つです。いま自分が通そうとしている意見は、場を前に進めるためのものか。それとも、自分の正しさを守るためのものか。その違いを見分けるところから、リーダーとしての「随」は始まります。
キャリアアップ・転職・独立
キャリアの転機では、「自分らしさ」と「市場から求められるもの」の間で迷うことがあります。今の職場で評価されてきたやり方を続けるべきか。新しいスキルを身につけるべきか。転職するべきか。独立を考えるべきか。こうした問いに対して、「随」は単純な答えを出しません。代わりに、「あなたは何に随ってキャリアを選ぼうとしているのか」と問いかけます。
人は、自分の軸だと思っているものの中に、過去への執着を混ぜてしまうことがあります。たとえば、「私はこの専門領域でやってきたから、これ以外は選ばない」と思っているとします。それが本当に自分の本質的な力から来ているなら、大切にすべき軸です。しかし、もしそれが「今さら変わるのが怖い」「新しい環境で未熟な自分を見たくない」という気持ちから来ているなら、それは軸ではなく、慣れへの執着かもしれません。
「随」は、この違いを見つめる卦です。随うべきは、他人の評価でも、流行でも、恐れでもありません。自分の本質的な力が、いま最もよく活きる流れです。
キャリアアップにおいて、環境に合わせることは、自己喪失ではありません。むしろ、自分の力を今の文脈に翻訳することです。以前は細部まで自分で手を動かすことが評価されていた人が、次の段階では人を育てることを求められるかもしれません。専門性を深めてきた人が、ある時期から横断的な調整力を求められるかもしれません。これは、自分を捨てることではなく、自分の力の使い方を変えることです。
転職や独立についても、「随」はタイミングを断定しません。今すぐ動くべきか、準備すべきかは、個々の状況によって異なります。ただし、見極めるポイントはあります。自分が今の場所に留まっている理由が、学びや役割への納得なのか。それとも変化への恐れなのか。逆に、動きたい理由が、本質的な成長への欲求なのか。それとも今の不満から逃げたいだけなのか。
「随」は、流れに乗ることをすすめますが、流れなら何でもよいとは言いません。市場のニーズに合わせることも大切ですが、ただ迎合するだけでは長く続きません。求められている役割の中に、自分の力を誠実に活かせる余地があるか。そこを見る必要があります。
たとえば、ある会社員が、長年続けてきた業務の価値が下がっていると感じていたとします。以前は重宝された経験が、今では自動化や新しいツールに置き換えられつつある。このとき、「自分のやり方を守る」だけでは苦しくなります。しかし、「時代に合わせて何でもやる」と焦っても、自分の軸が崩れます。
「随」の読み方では、まず自分の本当のエネルギーを見るのです。人を支えることか。複雑な情報を整理することか。言葉にすることか。数字を読むことか。そこを見たうえで、今の市場や組織が求めている形に合わせていく。
キャリアにおける「随」は、自分を変え続けることではありません。変えなくてよい核と、変えた方がよい形を分けることです。核を守るために、形を柔らかくする。その視点を持てると、変化は自分を脅かすものではなく、自分の力を別の形で開く機会になります。
ここで立てたい問いは、「私は自分の核に随っているのか、それとも慣れた肩書きや役割に随っているのか」です。この問いが、キャリアの選択を焦りから少し離してくれます。
恋愛・パートナーシップ
「随」が恋愛で問うのは、相手をどう動かすかではなく、この関係がいまどの流れの中にあるかを見ているか、ということです。相手に合わせるか、自分を通すかという二択の前に、まず関係そのものの現在地を受け止める必要があります。
関係が近くなるほど、人は相手を分かっているつもりになります。「こうしてくれたら愛されていると感じる」「こういう連絡の頻度が普通」「将来の話はこのくらい進んでいてほしい」。もちろん、自分の望みを持つことは自然です。しかし、その望みが強くなりすぎると、相手の現実を見ずに、自分の理想像だけを見てしまうことがあります。
「随」が問うのは、「あなたは相手の本当の流れに随っているか、それとも自分の期待に随っているか」です。
相手の趣味、生活リズム、仕事への向き合い方、人との距離感。それらは、自分とは違っていて当然です。違いをすぐに修正しようとするのではなく、一度その人のペースに触れてみる。なぜその人はその時間を大切にしているのか。なぜその言い方をするのか。なぜ一人の時間が必要なのか。そこに触れてみることで、表面的な不満の奥にある相手の本質が見えてきます。
これは我慢ではありません。自分の気持ちを押し殺すことでもありません。沢が相手の言動を映す器だとすれば、雷は自分の本音と尊厳を保つ力です。相手を受け止めながらも、自分の内側にある大切な感覚を失わない。その両方が揃ってこそ、恋愛における「随」は成り立ちます。
たとえば、相手が仕事で忙しく、連絡が少なくなったとします。ここで不安に随えば、「気持ちが冷めたのでは」と考えてしまいます。自分の理想に随えば、「本当に大切なら連絡できるはず」と責めたくなります。しかし状況の本質に随うなら、まず相手の現実を見ることになります。今、本当に余裕がないのか。関係への関心が薄れているのか。こちらの不安が過去の経験から強く出ているのか。
また、恋愛には段階があります。近づく時期もあれば、互いの生活を尊重する時期もあります。話し合いを深める時期もあれば、相手の変化を待つ時期もあります。「随」は、相手という人物に従うことではなく、この関係が今どの段階にあるのかという事実に随うことでもあります。
もちろん、相手に合わせることで自分が消耗し続けるなら、それは「随」ではありません。正しいものに随うという条件があるからです。関係を続けるために、自尊心や安心感を一方的に差し出し続ける必要はありません。
恋愛での「随」は、駆け引きではありません。相手を動かす技術でもありません。相手と関係の流れに耳を澄ませ、その中で信頼が育つ余白をつくることです。自分の期待を少し脇に置いたとき、相手の姿が見える。そのうえで、近づくのか、距離を置くのか、話し合うのかを選ぶ。そこに、大人の関係性としての「随」があります。
資産形成・投資戦略
資産形成において「随」は、特定の投資方法をすすめる卦ではありません。株価が上がる、下がるといった未来を示すものでもありません。むしろ、投資判断において「自分は何に随っているのか」を見直すための補助線になります。
投資で迷いが深くなるとき、人は事実ではなく、自分の予測に随ってしまうことがあります。「この銘柄は必ず戻るはず」「自分の見立ては間違っていないはず」「ここで売ったら負けを認めることになる」。こうした思いが強くなると、市場の流れより、自分の感情を優先してしまいます。
「随」が資産形成に教えるのは、市場に振り回されることではありません。市場という事実を見ずに、自分の思い込みに従っていないかを問い直すことです。価格の動き、資産配分、リスク許容度、生活費、長期目標。これらは感情とは別に存在する現実です。そこに随うことが、冷静な判断につながります。
ここでも、正しいものに随うという条件が重要です。短期的なニュース、SNSの熱狂、誰かの成功談に随うことは、必ずしも「随」ではありません。それらは流れに見えて、ただの騒ぎである場合もあります。随うに値するものは何か。自分の投資方針なのか。市場の長期的な傾向なのか。自分の生活を守るためのリスク管理なのか。その見極めが必要です。
たとえば、価格が下がった資産を持ち続ける場面を考えます。長期方針に沿った一時的な値動きであれば、焦って動かないことが必要かもしれません。一方で、当初の前提が崩れているのに、「いつか戻るはず」という気持ちだけで持ち続けているなら、それは市場の事実ではなく、自分の願望に随っている可能性があります。
「随」は、損切りが正しい、保有が正しいと断定しません。大切なのは、その判断がどこから来ているかです。事実から来ているのか。恐れから来ているのか。執着から来ているのか。長期の方針から来ているのか。この区別を曖昧にしないことが、資産形成における「随」の実践です。
資産形成では、短期的な焦りと長期的な安定のバランスも問われます。相場が大きく動くと、すぐに何かしなければならない気持ちになります。しかし「随」の卦では、動く力は内側にあり、表面は静かです。つまり、動ける準備をしながらも、むやみに動かない姿勢が大切になります。
これは、何もしないという意味ではありません。資産配分を確認する。生活防衛資金を見直す。自分のリスク許容度を再確認する。判断ルールを書き出す。こうした静かな行動は、外からは大きな変化に見えなくても、内側の力を整える行為です。
投資における「随」は、相場に従属することではなく、事実を尊重することです。自分の予測にしがみつくのではなく、状況の変化を受け止める。流行に飛びつくのではなく、自分の方針と照らし合わせる。その冷静さが、長く続けるための土台になります。
ワークライフバランスとメンタルマネジメント
仕事も生活も、計画通りに進むことばかりではありません。予定していたキャリアの流れが変わる。家族の事情が入る。体調が揺らぐ。職場の人間関係が変わる。自分ではコントロールできない出来事が重なると、人は「何とか元に戻さなければ」と力を入れます。
けれども、「随」はその力みを少しゆるめるよう促します。ここでいう「委ねる」は、諦めることではありません。現実の動きを否定せず、その中で自分のエネルギーをどう使うかを選び直すことです。
ワークライフバランスにおける「随」は、キャリアのように「何に随うか」だけでなく、「いつ随うか」を問います。今は押し切る時期なのか。整える時期なのか。待つ時期なのか。人に任せる時期なのか。自分の理想のペースではなく、現実のタイミングを見極めることが大切です。
忙しい時期ほど、予定通りにいかないことに苛立ちやすくなります。「今日こそ進めるつもりだったのに」「また邪魔が入った」「どうして自分ばかり調整しているのか」。その感情は自然です。ただ、その感情にそのまま随うと、さらに消耗することがあります。
感情もまた、随う対象の一つです。不安に随うのか。怒りに随うのか。焦りに随うのか。それとも、状況の本質に随うのか。ここを選べることが、「随」のメンタルマネジメントです。感情を否定する必要はありません。ただ、感情だけを唯一の判断材料にしないことです。
たとえば、仕事で大きなプロジェクトを抱えながら、家庭や健康面でも予定外の対応が続く場合、以前と同じペースを保とうとすると無理が生じます。ここで「自分はもっとできるはず」と過去の自分に随うと、心身が削られていきます。今の現実に随うなら、優先順位を変える、完璧さを下げる、人に頼る、休む予定を先に入れるといった選択が必要になります。
これは自己甘やかしではありません。次に動く力を守る行為です。燃え尽きてしまえば、必要なときに動く力も失われます。一度受け止め、力を蓄え直す。その順番を守ることが、持続可能な働き方につながります。
ワークライフバランスにおける「随」は、理想の生活を諦めることではありません。今の現実と摩擦を起こしすぎない形で、自分の生活を整え直すことです。仕事の波、体調の波、人間関係の波、ライフイベントの波。そのすべてを思い通りにすることはできません。けれども、その波の中で力の入れ方を変えることはできます。
ここで残る問いは、「いま私は、動くべき時に動こうとしているのか。それとも、整えるべき時に無理を重ねているのか」です。この問いを持つだけでも、日々の消耗は少し違った見え方になります。
今日の行動ヒント:すぐに実践できる5つのアクション
- 今日、いちばん抵抗を感じている流れを一つ書き出す
職場の方針、相手の意見、予定変更など、今の自分が「納得できない」と感じているものを一つだけ書き出します。それが本質的な違和感なのか、慣れた形を手放す不安なのかを分けて見てください。 - 「私は今、何に随っているか」と問い直す
不安、怒り、過去の成功体験、周囲の空気、事実、長期的な目的。自分の判断が何に引っ張られているかを確認します。「随」は、ただ合わせることではなく、随う対象を選ぶ智慧です。 - 一つだけ、相手や場のペースを観察する
会議、家族との会話、パートナーとの予定などで、今日は一度だけ自分の進め方を脇に置き、相手や場のリズムを見てみます。すぐに評価せず、そこから何が見えるかを観察してください。 - 動く前に、事実と感情を分ける
投資判断、仕事の返信、恋愛の連絡など、すぐに反応したくなる場面で、まず「事実」と「自分の解釈」を分けてメモします。動く力をすぐ外へ出さず、一度受け止める練習です。 - 今日の予定を一つ、現実の流れに合わせて調整する
無理に予定を押し通すのではなく、体調や状況に合わせて一つだけ順番や量を変えてみます。これは妥協ではなく、内側のエネルギーを守るための「随」の実践です。
まとめ
「随」は、周囲に合わせるか、自分を通すかという二択を越えて、「何に随うのか」を問い直す卦です。沢の柔らかさと雷の内なる力が重なるこの卦は、表面ではしなやかに受け止めながら、内側には判断軸を保つ姿を示しています。
今回の「随」は、動爻がなく、之卦もありません。だからこそ、何か別の展開を急いで探すより、今この構えを深く見つめることが大切になります。自分は何に随っているのか。恐れなのか。惰性なのか。周囲の空気なのか。過去の成功体験なのか。それとも、いま目の前にある状況の本質なのか。
随うことには、静かな判断が必要です。何にでも合わせるのではなく、随うに値するものを選ぶ。自分の力を捨てるのではなく、届きやすい形に整える。主導権を手放す場面があっても、自分の尊厳や判断軸まで手放さない。その区別を持つことが、「随」を日常に活かす入口になります。
今日できる一歩は、大きな決断ではないかもしれません。まず、自分が抵抗している流れを一つ見つめること。そして、その抵抗が本質的な違和感なのか、慣れた形を手放す不安なのかを分けてみること。それだけでも、状況の見え方は少し変わります。
「随」は、未来を決めつけるための答えではありません。いま自分が何に従い、何を選び、どこに力を置こうとしているのかを見つめるための補助線です。その問いを日々の判断の中に持ち帰ることが、「随」を読む意味になります。
